1887 Karl Marx
English Edition "Capital"  Translated by Samuel Moore and Edward Aveling,Edited by Friedrich Engels

Chapter 23

カール・マルクス

資 本 論


第一巻 資本の生産過程

第七篇 資本の集積


第二十三章 単純再生産[Chapter 23]

(訳者注:第23章の前に、第七篇の冒頭の文章がある。)


  (1) ある貨幣額の、生産手段と労働力への変換は、その価値量が資本として機能しようとする場合の最初の一歩である。この変換は、市場で、流通局面で行われる。続く第二歩は生産過程で、生産手段が商品に変換されるやいなや完結する。それらの商品はそれらの各構成要素を越える価値を持っている。つまり、前貸しされた当初資本に加えて、剰余価値を含んでいる。これらの商品は流通に投入されねばならない。それらは売られねばならず、それらの価値は貨幣で実現されねばならない。その貨幣が再度資本に変換されねばならない。そしてそのように何回も何回も繰り返されねばならない。この円運動が、その順で、同じ局面を連続的に巡って行き、資本の循環を形成する。

  (2) 資本集積 (訳者注: accumulationの訳である。向坂本は「蓄積」冒頭に集積と独特の訳語を置いていたのに、ここに来て蓄積とするのはやはりおかしい。私は冒頭、蓄積 と「集積」に代えて普段使われている ありふれた 分かりやすい言葉を用いたが、ここまで進んでくれば、ここは集積こそ採用したいと思う。) の最初の条件は、資本家がなんとしても彼の商品を売り捌かねばならず、そしてまた、その結果受け取った貨幣の大部分をなんとしても資本に戻さねばならないことである。我々は以下のページでは、資本が通常の方法によって循環するものとして取り扱う。その過程の詳細な分析は 第二巻で読むことになろう。

  (3) 資本家は剰余価値を生産する者。すなわち彼は労働者たちから直接不払い労働を引き抜き、そして商品に封じ込める。明らかに彼はこの剰余価値の最初の占奪者ではあるが、決して究極の所有者ではない。彼はそれを資本家ら、地主ら、他と山分けしなければならない。彼等は社会的生産複合体にあってその他の機能を果たしている連中なのだから。従って、剰余価値は様々な部分へと剥離して行く。それらの断片は様々な範疇の人々に行き着く。そして様々な形式を取る。それぞれは他からは独立している。利益、利子、商人の利益、地代、その他となる。だが、我々がこれらの剰余価値の変形した形式について詳しく見ることができるのは、第三巻でとなる。

  (4) それから、ここでは、我々は資本家が、彼が生産した商品をそれらの価値で売るものと仮定する。流通局面において資本家が横領を図る新たな形式や、これらの形式の下に隠蔽された再生産の具体的な諸条件については触れないでおくことにする。他方、我々は、資本主義的生産者を全剰余価値の所有者と見なし、多分この方がより良いと思うが、彼と共に横奪する仲間ら全ての代表者と見なす。従って、我々は、なにはともあれ、余計なものを削ぎおとした視点から、つまり現実の生産過程に於ける単なる一局面としての視点から集積について考えることにする。

  (5) 集積が生じると云うならば、資本家は彼の商品の販売に成功しなければならない。そしてまた、売り上げ貨幣額を資本に再変換しなければならない。それ以上に、集積の要素となるために持っているその性質や条件を変えてしまうような断片とならぬよう、剰余価値の霧散を防止しなければならない。彼こそは、なにはともあれ第一の、剰余価値の占奪者なのである。工業資本家として自身のためにそのいかなる比例部分を取ろうと、他の者にいかなる比例部分を配分しようと変わりはない。従って、我々は、実際に目に見えて起こったこと以上にはなにも仮定しない。とはいえ、単純な集積過程の基礎的形式はそれをもたらす流通の出来事によって、また剰余価値の分割によって隠されてしまう。そのため、これらの過程の正確な分析が、我々に、こうした内部メカニズムの作動を隠してしまうような全ての現象については、しばらくは、度外視して置くよう求めている。




第二十三章 単純再生産[Chapter 23]




  (1) 社会における生産過程の形式がなんであれ、生産過程は連続的な過程でなければならず、同じ局面を周期的に連続させて行かなければならない。社会は消費を止めることができないのと同様に生産を止めることもできない。それゆえに、連続する全体として、絶え間ない更新の流れとして見るならば、あらゆる社会的生産過程は、同時に、再生産過程なのである。

  (2) 生産の諸条件は同時にまたそれらの再生産の諸条件なのである。滞ることなく生産物の一部を生産手段や新たな生産物の要素に変換することなしには、社会は生産を続けることはできない。別の言葉で云えば、社会は再生産することができない。他の全ての状況が同じに留まり、その富を再生産し、その規模レベルを一定に保つ唯一の様式は、生産手段の更新による。すなわち労働手段、原材料、年を通じて消費される補助材料、同じ種類の年当たりで同量を示す品々の更新である。これらの物は年間生産物の量とは区別されねばならない。そして生産過程に年ごとに新たに繰り返し投入されねばならない。それ故に、各年の生産物の一定部分は生産領域そのものに所属する。そもそも最初から生産的消費に回されるように決められている部分もあり、そうしたものの多くは全く個人的な消費には適さない物の形をしている。

  (3) もし生産が資本主義的形式であるならば、その様に、同様、再生産もまた そのような形式となるであろう。生産においては労働過程がまさに資本の自己拡大の手段を形成するが、再生産においてもまさに資本としての再生産、つまり価値の自己拡大として、まさに、前もって見込まれる 付加される部分を含む価値の再生産の手段を形成する。
  (訳者小余談: 向坂訳を示しておく。「資本主義的生産様式においては、労働過程は、価値増殖過程手段としてのみ現れるのと同様に、再生産も、前貸しされた価値を資本として、すなわち自己を増殖する価値として、再生産するための一手段としてのみ現れる。」色を付けた部分に多少異論があるのだが、一つだけ、前貸しされた価値(the value advanced)に焦点を当てておきたい。確かに、正訳ではあるのだが、前貸し資本(または貨幣)同様の使用ではあっても、やはり日本語としてはなじみがない。あえて長い訳としてみたところであるが、蛇足感もある。)
  とある人間に資本家と言う経済的外観が随行するのは、単に、彼の貨幣が常に資本として機能するからである。例えば、もし100ポンドが今年資本に変換されて、そして20ポンドの剰余価値を生むなら、そのように次の年もずっとそれを続けるに違いなく、更にその次の年も、同じ作動を繰り返すに違いない。前貸し資本の周期的な増殖または定期的な資本の果実を得る過程からして、剰余価値は資本から流れだす収益の形式を獲得する。*1

  本文注 *1: 「金持ち、他人の労働を消費する者は、それを交換によってのみ得ることができる。…. 彼等の得たそして集積された富を、彼等の気まぐれな願望にかなう新たな生産物との交換に放逸するため、早々に彼等の保有額が底をつくかのように見える。我々が既に述べたように、彼等は働かず、また働くことができない。それゆえ、彼等の以前の富は毎日減り続け、最終的には何物もなくなる日が来るであろうし、彼等のためにのみ働く労働者に支払うものもなくなるだろうと普通はそう思う。…. だがそうではない。社会的秩序にあっては、富は他人の労働を通じて、その所有者の助けを必要ともせず、それ自身を再生産する力を獲得している。富は、労働のように、労働によって、毎年 果実を獲得する。さらにこの果実は毎年、見て分かるように、金持ちを貧乏人にすることもなく放逸される。この果実は資本から生じる収益なのである。(イタリック) (シスモンディ 「政治経済学の新原理」(フランス語) パリ 1819年第一巻 81-82ページ)

  (4) もしこの収益が資本家をして、彼の消尽のために用意された基金の役割を果たし、そしてその収益が得られたように周期的に用いるならば、そのような支出の準備ができていれば、(ラテン語)単純再生産は起動する。そして、この再生産が以前と同じ規模の生産過程の単なる繰り返しに過ぎないとしても、依然として単なるこの繰り返しまたは連続性が、その過程に新たな性格を付与する、いやむしろ、以前は一つの隔離された不連続な過程であったその簡単に分かるいろいろな性格を消し去る原因となる。

  (5) ある一定期間の労働力の購入が、生産過程への序走である。そしてこの決められた期間が終了に至れば、ある明確な生産期間、週とか月とかが経過すれば、この助走は決まって繰り返される。しかし労働者には彼が彼の労働力を支出し、そしてその価値のみでなく剰余価値をも商品に実現するまでは、何も支払われることはない。従って、彼は、我々が現時点では資本家の個人的な消費に適う基金とみなす剰余価値を生産するだけではなく、彼は、彼に賃金の形で戻ってくる前に、彼自身が支払われる基金、可変資本をも生産する。そして彼がこの基金を再生産する限りにおいて彼の雇用が継続される。かくして、第18章での述べた経済学者の公式のように、賃金は生産物の中の分け前として現れる。*2

  本文注 *2: 「利益同様、賃金も、それぞれ実際のところ、完成した生産物の一部分のごときものと考えられている。」(ラムゼー 前出 142ページ)「生産物の分け前、それは賃金の形式で労働者のところにやってくる。」(J. ミル 「要素、他」(フランス語) パリソー訳 パリ 1823年 34ページ)

  (本文に戻る) 賃金の形として労働者に戻ってくるのはものとは生産物の一部分であり、そして引き続き生産物の生産がさらに彼によって行われる。資本家は、確かに、彼に貨幣で支払う。しかしこの貨幣は彼の労働の生産物の単なる変容化された形式にすぎない。彼が、生産手段の一部を生産物に変換する一方で、彼の過去の生産物の一部が貨幣になりかわったのである。先週または去年の彼の労働が、今週または今年の彼の労働力に対して支払うのである。貨幣の介入によって生じるこの幻想は、一人の資本家と一人の労働者に替わって、資本家階級と労働者階級という全体像を捉えるならば、一瞬にして霧消する。資本家階級は常に労働者階級に対して注文書(order-note)を渡す。ただしこれを貨幣形式で渡す。後者によって生産され、前者によって占有される商品の一部を表す注文書を。労働者はこの注文書を常に資本家に戻し、そして彼等自身の生産物のうちの彼等の分をこの方法によって獲得する。生産物の商品形式と商品の貨幣形式がこのやりとりを隠蔽する。

  (訳者注: 色を換えた部分の英文は括弧書きした通りだが、これを向坂訳は手形と訳す。するとこうなる。「資本家階級は労働者階級に、後者によって生産され前者によって取得される生産物の一部分を受け取るべき手形を、たえず貨幣形態で与える。この手形を、労働者は同様にたえず資本家階級に返し、かくして、彼自身の生産物のうちの彼自身に属する部分を、資本家階級から取り去る。 生産物の商品形態と商品の貨幣形態とが、この取引を蔽いかくすのである。」賃金で生産物の一部を買い戻す 労働者の姿が浮かんでくるとは云いにくい。資本家階級から取り去るという部分はかなり目茶苦茶で、意味を表すものではない。手形でもなんでもいいのだが、賃金と手形ではわざわざ云う必要もない位近い。デザイン料と給料と手形はもう一体そのものなのである。注文書となると、その比喩が見事な皮肉となる。注文書・請求書への支払いを忘却し、注文書を返却させて商品の一部を譲るとなればほとんど詐欺である。この面白さを訳さないなんてもったいない。)

  (6) 結果的に可変資本は、生活必需品を確保するための基金という外観の、唯一の、特別なる歴史的な形式となる。あるいは彼及び家族を維持するために労働者が求める労働基金、そしてそれは社会的生産システムの如何に係わらず彼が彼自身を生産し再生産せねばならないがゆえの基金という外観の、唯一の、特別なる歴史的な形式となる。労働基金がなにゆえ彼の労働に支払われる貨幣と云う形式で常に彼に流れ込むのかと云えば、その理由は彼が創造した生産物が常に彼から資本の形式で逃げ去るがゆえである。しかしこれらのことが以下の事実を変えはしない。それは労働者自身の労働が生産物に実現されているということであり、それが資本家によって彼に前貸しされたものであるということである。*3

  本文注 *3: 「資本が労働者の賃金に前貸しとして用いられるなら、労働を維持するための基金には何物も加えない。」(ケズノーブ 彼の版による マルサス 「政治経済学の定義」ロンドン 1853年 22ページの注書き)

  (本文に戻る) 我々は一人の小作農民を取り上げて見ることにしよう。彼は彼の領主のための強制使役に従わねばならない。彼は彼の土地で、彼自身の生産手段をもって、例えば週3日働く。他の3日は領主の領地で強制使役として働く。彼は常に彼自身でもある労働基金を再生産する。彼の場合、その労働基金は決して他人の前貸しのような彼の労働に対して貨幣による支払いという形式は取らない。その代わり領主のための彼の不払い強制労働は、両者にとって、決して自発的な無報酬の労働と云う性格も取らない。ある晴れた日、領主が、この農民の土地、牛、種、一言で云えば、彼のその生産手段を領主自身の占有物としたとすれば、この時を境に、この農民は彼の労働力を領主に売ることを義務づけられよう。彼は、そうする他なく(ラテン語) 以前のように週3日を彼自身のために、3日を彼の領主のために働いたようにやることになるだろう。かくて彼の領主は賃金を支払う資本家となる。以前と同じ様に、彼は領主の生産手段をかっての自分の生産手段同様に使い、それらの価値を生産物に移管するであろう。以前と同じ様に、生産物のある一定部分は再生産のために用いられるであろう。だがしかし、この瞬間から、強制労働は賃金労働へと変化する。この瞬間から、彼自身が以前に継続していた労働基金の生産・再生産は、領主の賃金形式なる前貸し資本形式を取ることになる。ブルジョワ経済学者の狭き知筋では、そこに現れる物事からその外観形式を取り去ることはできない。事実に目を閉ざし、それでも地上のそこここにあるものを、資本形式の中に労働基金が結実していることを、今日においてさえも、把握することができていない。*4

  本文注 *4: 「労働賃金が資本家よって前貸しされているが、その範囲は、地球上の労働者の1/4よりは少ない。」(リチャード ジョーンズ 「諸国の政治経済学に関する講義テキスト」ハートホード 1852年 36ページ)

  訳者小余談: 向坂訳を示しておく。「ブルジョワ経済学者は、今日でも労働原本が、地球上でただ例外的に資本の形態をとって現れているにすぎないという事実の前には目を閉じているのである。」例外的と云う言葉は、なにか資本主義的生産様式が歴史上の例外であるかのように読ませているし、労働基金が資本の形式をとるでは資本家の占有とは独立しているかのように読ませる。決してそうではない。資本家が云うだろう。例外に目を閉じたとてどうということもあるまい。労働基金が資本形式という例外形式を採ったからといって、資本家には何の問題もなかろう。と。訳者として、歴史観・社会観・労働観が常に問われるのは私も同じだが、ことはマルクスのそれにより迫った訳であるべきことだ。

  (7) 確かに、可変資本は、我々が資本主義的生産過程をその絶えざる更新の流れとして見る時は、全くのところ資本家の基金*5から前貸しされた価値と言う性質を失う。

  本文注: *5「工場手工業者(ここでは労働者の意味)は、彼の賃金を、彼のご主人様が彼に前貸ししたものとして受け取るのではあるが、実際のところご主人様はなんの出費も負担していない。この賃金の価値は一般的には、彼労働者の労働によって生産物の上にもたらされ増大した価値、つまり利益とともに取り置いていたものである。」(A. スミス 既出 第二巻 第三章 311ページ)

  (本文に戻る) とはいえ、この生産過程はいわゆる物の初めなるものがなければならない。従って我々の現視点からは、その昔、資本家が貨幣を持つ者として現れたように見える。その資本集積は全く他人の不払い労働から独立しているかのように見える。それゆえ、その貨幣をして労働力の買い手として何回となく市場に出入りできたわけが分かるように見える。しかしながら、これはその過程の単なる連続の結果と考えてもいいだろう。単純な再生産が全く別の驚くべき変化をもたらしたのであり、可変資本に影響するのみならず、全資本を創り出したのである。(訳者注: この弁証法的感覚が失せると、神の手が資本を資本家に与えたかのようにひっくり返った観念論に陥る。次段の本文を読めば、この注も不要である。マルクスの記述を読めば、なるほどこのように云うのかと思う。見事と云う他ない。)

  (8) もし1,000ポンドの資本が、毎年200ポンドの剰余価値をもたらすとしたら、そしてこの剰余価値が毎年消費されるとしたら、5年末には消費された剰余価値は5×200ポンドまたは当初に前貸しした1,000ポンドの額になるだろうことは明らかである。もしある部分、例えば半分が消費されたとすれば、同じ結果が10年末にはついてくるだろう。10×100ポンド=1,000ポンドなのだから。一般的規則はこうなる。前貸し資本の価値を年に消費する剰余価値で除算すれば、その答は年数を与える。または再生産期間を与える。その満期時点、すなわち資本家の当初の前貸し資本が彼によって消費され消滅する時点を与える。資本家はこう考える。他人の不払い労働の生産高、すなわち剰余価値を彼が消費しつつ依然として彼の当初の資本を無傷のままに保持していると。しかしどう彼が考えたとて、事実を変えることはできない。一定年数の経過後、そこで彼が所有する資本価値はその年数間で彼によって占有された剰余価値の総計と同価値であり、かれがその間に消費した全価値は彼の当初の資本のそれと同価値である。事実、彼が手にした資本量にはなにも変化がない。その一部でもある建物、機械、その他がすでに、彼がその商売を始めた時には存在していたのだから、彼の資本量に変化はない。しかし我々が見ていかなければならないものは、物質的要素ではなく価値の方である。資本の価値の方である。一人の人間が彼の全財産をその財産の価値と等しい借金によって得たならば、彼の財産は他でもなく彼の借金総額を示す以外の何物でもない。そして資本家についても同様、彼が当初の資本と等価分を消費したのであるから、彼の現資本の価値は他でもなく、不払いによって占有した剰余価値全量を意味するばかりである。彼の古き資本価値の一原子もそこには存在し続けてはいない。

  (9) そこにどんな集積があろうとなかろうと、生産過程の単なる繰り返し、別の言葉で云えば単純再生産が、遅かれ早かれ、必然的に、あらゆる資本を、集積された資本に、または資本化された剰余価値へと変換する。当初資本が雇用主の個人的な労働によって取得されたものですら、遅かれ早かれ、他人の不払い労働の物質化したもの、それが貨幣であったり、その他の物であったりするが、それになんら等価を支払うことなしに彼の占有価値となる。我々は第四章−第五章で、貨幣を資本に変換するためには、商品の生産や流通に加えてより以上の何物かが必要とされることを見て来た。我々は、一方の側に、価値または貨幣の所有者が、他方に価値を創造する本体の所有者が、一方に生産手段と生存手段の所有者が、他方に労働力以外のなにものも所有しない者が互いに買い手と売り手として対面しなければならないことを見て来た。従って、労働者の生産物から労働者の分離が、客体的な労働条件から主体的な労働力の分離が、事実として、資本主義的生産の真の基礎そしてその真の出発点となったのである。

  (10) まさにその、単に出発点に過ぎなかったものが、単なる過程の継続によって、単純再生産によって、更新され続け、永続されることによって、資本主義的生産となるのである。一方においては、この生産過程が物質的な富を資本に変換し、より大きな富の創造手段に変換し、そして資本家のための美味しい手段となるのである。他方、労働者は、その過程に入り、富の源泉となるのだが、その富を自分のものとする手段は全く持っておらず、その過程からはじき出される。この過程に入る以前に、すでに、彼自身の労働は、彼の労働力を売ることで、彼自身からすでに疎外されており、資本家によって私物化されており、資本と一体化されている。この過程にあっては、生産物として実現れさるものは彼に属してはいない。また、すでに、生産過程は資本家が労働力を消費すると云う過程になっており、労働者の生産物は絶え間なく商品に変換されるのみではなくまさに資本に変換され、価値創造力を吸い込む価値に、労働者の人間性を買い取る生活手段に、生産者に命令する生産手段にと変換される。*6

  本文注: *6「これは生産的労働の驚くべき特異稀なる属性である。生産的に消費されたものは他でもなく資本である。そして消費によってそれが資本となる。」(ジェームス ミル 既出 242ページ)しかしながら、ジェームス ミルは、この「驚くべき特異稀なる属性」のトリックについては何も得ることはなかった。

  (本文に戻る) 労働者は、従って、物を絶え間なく生産し、物的な富を生産したが、しかしただ資本形式のそれを生産し、エーリアンの力が彼を支配し搾取するばかり。そして資本家は絶え間なく労働力を生産するが、しかしただ自分勝手な富の源泉形式として生産し、彼は自己の存在を表す物から隔離される。端的に云えば、労働者を、単なる賃金労働者として生産するばかり。*7

  本文注: *7「確かにそれは真実である。工場手工業が最初の段階で多くの貧しい人々を雇用したが、貧乏を停止させることは無かったし、さらなる多くの貧しき者をつくり続けた。」(「羊毛輸出制限の理由」ロンドン 1677年 19ページ) 「農業者は今日、馬鹿げたことを主張する。貧乏人を養っていると。確かに彼等は貧窮のままに置かれている。」(最近の貧民率の増加に関する理由 または労働価格と穀物価格の比較的検討) ロンドン 1777年 31ページ)

  (本文に戻る) この絶え間なき再生産、この労働者の生産の永続化こそ資本主義的生産の無では済まない一句なのである。(ラテン語)

  (11) 労働者の消費は二重構造になっている。生産において、彼は彼の労働によって生産手段を消費し、それらを前貸しされた資本よりも高い価値を有する生産物に転化する。これは彼の生産的な消費である。同時にこれは彼の労働力を買った資本家による彼の労働力の消費でもある。他方では、その労働者は彼に支払われた彼の労働力のための貨幣を生存手段へと変える。労働者の生産的消費と彼の個人的な消費とは、であるゆえ、全く異なるものである。前者の場合、彼は資本の原動力として振る舞い、資本家に従属している。後者の場合は、彼自身に所属しており、生産過程の外で彼の必須の生命機能を実行する。その結果一つは資本家の生活であり、他の一つは労働者としての生活である。

  (12) 労働日を取り上げた時に、我々は、労働者がいつも彼の個人的な消費が単なる生産の一部であることを余儀なくされていることを見てきた。そのような場合、彼は彼自身に生活必需品を供給するのだが、彼の労働力を維持するために供給する。丁度石炭や水を蒸気機関に供給するようにまた車輪にオイルを供給する様に。かくして、彼の消費手段は単なる生産手段として用いられる。彼の個人的な消費は直接的な生産のための消費となる。とはいえ、このことは資本主義的生産に本質的な関係はなくよくある悪癖のように見える。*8

  本文注: *8 もし、ロッシが、この「生産的消費」の秘密に本当にするどく切り込んでいたならば、労働者のこの消費に対してこんなふうに侮辱的な激しい言葉を使うことにはならなかっただろう。

  (13) この事情は、我々が一資本家とか一労働者とかを考えるのではなく、資本家階級と労働者階級として考えると、社会から隔絶した生産過程としてではなく、資本主義的生産が現実の社会的規模で全開しているとして考えると、全く別の局面を見せる。資本家は彼の資本の一部を労働力に転換することによって、彼の全資本の価値を増大させる。彼は一石二鳥を得る。彼は労働者から受け取るものからのみでなく、労働者に与えるものからも利益を上げる。労働力と交換されたその与えられた資本は生活必需品に転換され、それらの消費によって、生きている労働者の筋肉、神経、骨、そして頭脳が再生産され、新たな労働者たちも生まれる。厳密に生活必需品であるものに関する限りで云えば、従って、労働者階級の個々の消費は、労働力と交換されさた資本によって与えられた生活手段を、資本の搾取に供される新たな労働力への再転換と言える。それこそ資本家にとって不可欠な生産手段、労働者そのものの生産及び再生産と言える。労働者の個々の消費が、作業所でなされようと、作業所外でなされようと、それが生産過程の一部においてなされようと、そうでなかろうと、結果として、資本の生産及び再生産の一要素を形成する。丁度、機械の清掃と同じで、機械の稼働中にそれがなされようと、休止中になされようとどうでもいいように。事実、労働者が彼自身のために生活手段を消費し、なにも資本家を喜ばすものではないとしても、その事情を変えるものではない。家畜が食べるのを喜んでいるとしても、家畜の飼料の消費は生産過程に必要な要素そのものである。労働者階級の維持及び再生産は資本の再生産の必要な条件であり、かつどこまでもなされなければならない条件なのである。そしてその条件に関しては、資本家は、なにもせずに、労働者の自己保存と繁殖の本能にまかせるのみ。全ての資本家が気にかけることは、出来うる限り、労働者個人の消費を減らし、厳密な必要品に限ることである。これら資本家は、南米の暴君の残虐とはかなり違う。南米の暴君は彼の労働者たちにより滋養のある食料を滋養の少ないもの以上に多く食べるよう強いる。*9

  本文注: *9 「南米鉱山の労働者らは、毎日ある作業(多分、世界一過酷な)を行う。それは地下450フィートから180-200重量ポンドの鉱石を肩に地上まで運ぶ仕事で、そらまめ他の豆類のみが与えられる。彼等は多分パンを好むと思われるが、彼等のご主人はパンではこれほどの作業はできないことを知っている。彼等を馬のように使うために、かれらに豆類のみを食べるように強いる。とにかく、パンよりは骨に良い(リン酸石灰)成分が豊富だから。」(リービッグ 既出 第一巻 194ページ ノート)

  (14) かくて、資本家と彼の観念論を代弁する政治経済学者は、労働者階級を永続させるための労働者個々必須の部分たる消費のみを生産的な消費と云う。すなわち、この消費は資本家が労働力を消費することができるよう そのためには なくてはならないものなのである。それ以外の労働者個々の勝手な楽しみのための消費は非生産的な消費なのである。*10

  本文注: *10 ジェームス ミル 既出 238ページ

  (本文に戻る) もし、資本の集積が賃金の上昇を招ねき、労働者の消費を増大させたとしても、資本による労働力の消費の増加が伴わないならば、追加的な資本は非生産的に消費されたと云うことになってしまうだろう。*11

  本文注: *11「もし、資本の増加との兼ね合いもなしに、労働の価格が非常に高く上昇するならば、なにものの雇用もなしえない。私はこのような資本の増加は結局のところ非生産的な資本の消費であると云わざるをえない。(リカード 既出 136ページ)

  (本文に戻る) 実際のところは、労働者の個人的な消費は彼自身にとっても非生産的である。なぜならば、それが再生産するものは彼自身のさらなる困窮以外のなにものでもないからである。それは同時に、(訳者の追加)資本家や国家にとっては生産的である。なぜならば、彼等の富を創り出す力の生産なのだから。*12

  本文注: *12「生産的消費と適切に言える唯一のものは、富の消費または破壊である。(彼は生産手段のことをそっと匂わす。)資本家の富の再生産のための富の消費・破壊と云う意味で。…. 労働者は、…. 彼を雇った人物や国家にとっては生産的な消費者である。彼自身にとっては、厳密に云えば、決してそうではない。(マルサス 「定義他」30ページ)

  (15) 従って、社会的視点から見れば、労働者階級は、直接的に労働過程には組み入れられていない時でさえ、一般的な労働の道具と同様、資本の付属物そのものである。個人的な消費といえども一定の条件はあるものの、単なる生産過程の要素ですらある。とはいえ、その生産過程では、これらの自意識がある道具が変な気を起こさぬよう監視して、それらの生産物をできるだけ早く彼等の側から反対の資本の側へ移す。個々の消費は一方で彼等自体の維持と再生産のための手段を供給し、他方では、生活必需品を全消費させて労働者が労働市場に再び登場せざるを得ない仕組みを確立する。ローマの奴隷は足かせで繋がれ、賃金労働者は彼の雇い主の見えない糸に繋がれる。独立の外観は雇い主の絶えざる交代によって(訳者注: 労働者の絶えざる解雇と派遣先の度重なる更新と変更とによって)維持され、また契約(訳者注: 就業規則とか御用組合通則等)という名称の虚構の法(ラテン語)によって維持される。

  (16) 以前、資本は、必要があればいつでも自由労働者の所有権を強行に主張できる法律を作った。例えば、英国では、1815年に至るまでは、機械製作に雇用された機械工の外国への移民が、とんでもない苦痛と罰則を以て、禁じられた。

  (17) 労働者階級の再生産には、技能の蓄積が含まれている。一世代から次世代に手渡しされる。*13

  本文注: *13「予め蓄積され、準備されている唯一のものは、誰もが知っている通り、労働者の技能である。…. 熟練労働の蓄積と貯蔵、この最重要な作業は、かくも大勢の労働者たちがやってのけるのだが、そこにはいかなる形の資本すらの何らの関与もなく成就される。」(Th. ホジスキン「擁護された労働、他」13ページ)

  (本文に戻る) どの程度 資本家が彼の権利を以て様々な生産要素の中で、これらの熟練者階級の存在を認めていたか、またどの程度 実際に、可変資本としての存在と見なしていたかは、恐慌が彼のその損失を脅かすやいなやはっきりする。アメリカの南北戦争によってもたらされた恐慌と、それによる綿花不足とによる恐慌は、よく知られているように、ランカシャーの殆どの綿業労働者を路頭に迷わせた。当の労働者階級からも、それ以外の社会的階級からも国家による援助や国家的な有志による寄付を求める声が沸き上がった。「余剰化」した労働者たちを植民地または合州国への移民を可能にするためにと。ザ・タイムス紙 1863年3月24日発行 は、マンチェスター商工会議所前会長のエドモンド ポッターの手紙を載せた。この手紙は正しく 工場手工業主らのマニフェスト と、下院で命名された。*14

  (訳者の余計なる余談: 自公票決による「特定秘密保護法」は、正しく 資本が日本国憲法を度外視して武器商売・戦争商売をするために必要なその僣越なる権利を邪魔させない法と 衆参両院では命名されなかった。またさらに追加して云えば、「批判者を勝手にテロリストと名指し、生死を問わず排除するための法とも命名されなかった。注: この訳者の余計なる命名は少々長過るか。急ぎ以下本文の注へと飛ぶこと。)

  本文注: *14「この手紙は、工場手工業主らのマニフェストと見なされるものである。」(フェランド 「綿花欠乏に関する動議」 下院 1863年4月27日)

  (本文に戻る) 我々は、いくつかの特徴的な文章、労働力を資本が占有する権利云々と、恥知らずに主張するところを、以下抽出して示す。

  (18) 「彼」(仕事から放り出された者)「は、こう言われるかもしれない。綿業労働者の供給量はあまりにも大き過ぎる。… そして、… 事実、多分、その1/3は減らさなければ… ならない。その結果、残った2/3に対してはそれなりの需要があるであろう。… 世論は、… 移民を懇請する。… 工場手工業主は彼の労働供給が取り去られることには納得がいかない。彼は多分こう考えるものと思う。それは不正であり、かつ健全とは言えないと。…. それでももし、移民を支援するために公債が用いられるとなれば、彼は質問し、多分抗議する権利を持ち出すであらう。」

  (19) ポッター氏は、さらに、綿商売がいかに有益かを示す。いかに「この商売が、疑いもなく、アイルランドから、そして農業地域から余剰人口を引き受けたか」その発展がいかに巨大なものであったか、1860年には英国の全輸出の5/13を産出するに至ったか、さらに二三年後にはいかに市場を広げたか、特にインド市場を、多量の綿供給を1重量ポンド当たり6ペンスで獲得することで拡大したか。彼はさらに次のように続ける。

  (20) 「時間が立てば、1年、2年あるいは3年も立てば、その量を生産することになるかも知れない。…. そこで質問するが、それはこう言う質問である。 − この商売は保持するに値するか? その間 機械 ( 彼は生きた労働機械のことを云っている。) は、そっくりそのまま 維持するに値するか? 私は値すると思う。私は労働者たちは財産ではないことを、ランカシャー州や工場手工業主達の財産ではないことを正当に認める。しかし彼等はそのいずれにとっても力の源である。彼等は一代では取り替えることができない精神を持ちかつ鍛えられた人数である。単なる働く機械の大部分は12ヶ月で取り替えた方がよく、いや改良されるだろう。」*15

  本文注: *15 この同じ資本がいつものことだが、こと賃金減額の問題になると全く別の歌を歌う。どうしたことか ご主人達は異口同音に、「工場労働者達は、以下のような健全なる記憶を肝に命じておけ、おまえらの技能は最も低い技能労働でしかない。これ以上簡単に雇用しうる者は他にはいない。または、その程度の技能を持つ者はいくらでもいる。わずかな訓練で出来上がった最低の技能者はいつでも、有り余る程いるし、獲得しうる。… 一方のご主人様の機械」 (我々が12ヶ月たらずで取り替えた方がいいと今学んだところのもの) 「は、労働者や技能労働者」 (30年間もの間、取り替えることができないと今いったばかりの) 「と較べれば、生産ビジネスの場では、遥かに重要な役割を実際に果たしている。お前らのは6ヶ月の教育で十分で、どんな労働者でも習得しうる。」(ポッターだかポーカーだか知らないが、張った賭け金の423ページを見よ) (訳者の無駄的余談の追加)

  (本文に戻る) 「労働力の移住を奨励または許可(!)したなら、資本家には何が起きるのか? …. 労働者のおいしい処を取り去れば、固定資本はかなりの価値の低下に見舞われるだろう。そしてまた流動資本は劣悪なるしかも短期の労働をもってしては競争に打ち勝つことはできない。… 我々は労働者たちがそれ(移民)を望んでいると聞いている。」「彼等がそうするのは極めて自然のことである。…. 労働力を取り去って、綿商売を縮小し、圧縮し、彼等の賃金支出を減らせば、例えば1/5に、または5百万ポンドを減らせば、彼等の上の階級、小商店主には何が起きるのか、地代にはなにが起きるのか、小屋の家賃には何が起きるのか。…. どのような影響が、上の方にも、小借地農業者や、比較的大きな家主に生じるのか考えても見よ。さらに、… 地主へも。国の最良の工場手工業の人々を輸出して、そして、その最も生産的な資本と富を破滅させ、国を弱体化して、この国の全階級を自滅させることよりも悪い方法があるなら何んなのか云うてみい。…. 私は国債(5、6百万 スターリング ポンドの)発行を検討してもらいたい。それは二、三年を越えることになるやも知れないが、綿業地域の貧民保護局に特別の委員会を設立してその監視の下、特別立法の下、国債を受け取る者のモラルを維持する手段としての特別の就業または労働を強制する。…. 地主達または工場手工業主達にとって、最良の労働者を手放なし、その他の労働者を堕落させ、失望させるような底知れぬ枯渇的な移民、全国の資本や価値を放出してしまうような移民よりも悪いものが 他にあるか?」

  (21) 工場手工業主らに選ばれたマウスピースなるポッターは、二つの種類の「機械」を区別する。いずれも資本家に属するものであるが、その一つは彼の工場で ぼうーっと立って居り、もう一つは夜間と日曜日、工場の外の 小屋でくたっと横になっている。(英文はstands とis housedで、かなりの意訳なのだが、気に入っている。私のほぼ半生だから私にとってはこれしかない。云っておくがマルクスが工場内にぼうっーと立っている機械と云うのは、私のそれとは違うのでご注意されたし。)前者は死んでおり、後者は生きている。死んだ機械は日々磨耗し、その価値をも日々下落させるのみでなく、その大部分は絶えざる技術的進歩によってたちまちの内に時代遅れとなり二三ヶ月後にはより経済的な、新たな機械によって更新される。生きた機械はそれとは違って、長ければ長いほど良くなり、それにつれて技能としても優れたものとなり、一世代から次世代に手渡していくことができる。そしてそれが積み重なっていく。これに対して、タイムス紙は綿君主に次のように答えた。

  (22) 「エドモンド ポッター氏は、綿業主なる階級を保持しようとするほどにも また彼等の職業を不朽のものとするほどにも、特例的でかつこの上なき重要性がある云うご主人たちの主張に、強い印象を受けたようだ。彼は50万人もの労働者階級を、彼等の意向に反して、狭く高道徳なる救貧院に閉じ込めて置きたいらしい。「この商売は続けるに値するか? 」とポッター氏は問う。「正直に云ってその通り。」と我々は答える。「しばらくの間、機械をそのままに維持する価値はあるか?」と再びポッター氏は問う。我々はこの問いには 即答を躊躇する。「機械」とは、ポッター氏が云うそれは人間機械のことである。なぜ躊躇するかと云えば、彼は労働者をあたかも財産のように使うことは意味しないとも主張しているからである。ここは正直に云わねばならない。我々は、人間機械をそのままそれが必要となるまで給油して閉じ込めて置くことは、「多少の期間ならば」でも、実際のところ可能であるとも思ってはいない。あなたが油を注し磨いたとしても人間機械は止めていれば錆びる。さらに、我々が良く知っているように、自分の気分で酔っぱらい、吐瀉し、我々の偉大なる街を汚しまくる。ポッター氏が云うように、労働者たちを再生産するには多少の時間が必要となるかも知れないが、機械設計者と資本家が間に合っていれば、我々はいつでも我々が必要とする以上の工場手工業主らを揃えるに足る、つつましく、屈強で、勤勉な労働者たちを見つけることはできるだろう。ポッター氏は商売の回復を「一年、二年、ないし三年」と話し、そして我々にこう要望する。「労働力の移民を奨励したり、許したり(!)」しないようにと。」*16

  本文注: *16 議会は移民支援のための1ファージング銅貨も票決せず、逆に、労働者たちを半飢餓状態に置き、すなわち、標準賃金以下で彼等を搾取する権限を、地方自治体に与えるいくつかの法律を単純手続き的に通過させた。これとは違って、3年後に、牛疫が発生した時には、議会はいつもの慣習もどこへやら、たちまちのうちに百万長者の大地主に損害補償として百万ポンドの支出を票決した。かれらの土地を借地する農業主らはいずれにしても何の損失もないばかりかうまく便乗することができた。肉の価格が上昇したのだから。1866年の議会開催時の、土地所有者の牛のごとき咆哮は、まるで、雌牛サバラをあがめるにヒンズー教徒たるを要せず、みずから雄牛と化すにジュピターとなるを要せずと云う有り様だった。

  (本文に戻る) 「彼は、労働者たちが移民したいと欲することになるのは極めて自然なことと云う。しかし彼は、彼等の要望とは逆に、国に、50万人の労働者と彼等の家族たち70万人を綿業地域に閉じ込めて置くべきであると云う。そしてそのことのために、彼は、国が、彼等の不満を力で抑えつけて、彼等を慈善金で維持するべきであると云う。−そして綿業主がいつか彼等を必要とする時期に至るまで…. この「労働力」を、あたかも鉄や石炭や綿のごとく取り扱う者らから、今こそ、救い出さねばならないと、この島々の大きな世論が立ち上がったのである。」

  (23 ) タイムズ紙の記事は、ただの気取り遊び(フランス語)に過ぎなかった。「大きな世論」とは、事実上は、ポッター氏の論であり、工場労働者は工場に付属する動産の一部と云うことだ。労働者たちの移民は阻止された。彼等は綿業地域の「道徳的救貧院」に閉じ込められた。そして、以前と同様、ランカシャー工場手工業主らの「力そのもの」となっている。

  (24) この様に、資本主義的生産は、その存在自体をもって、労働力と労働手段との分離を再生産する。そのためにもそれは労働者を搾取するための条件を再生産し、また永久化する。それは絶えず、彼に彼の労働力を生活するために売るようにと強いる。そして、資本家には彼自身を富ませるであろうために労働力を買うことを可能にする。*17

  本文注: *17「労働者は生きるための生存手段を求め、ボスは利益を作るために労働を確保しようとする。」(フランス語) (シスモンディ 既出 91ページ)

  (本文に戻る) ここまで来れば、資本家と労働者がたまたま市場で互いに買い手と売り手として対面することになるとは、もはや、言えるものではない。絶えず労働者を彼の労働力の売り主として市場に投げ返すと云う過程そのものであり、またそれは、彼自身なる生産物を他人が彼を買うことができる手段へと変換する過程そのものである。実際のところ、労働者は彼が彼自身を資本に売る以前に資本に帰属している。彼の経済的束縛 *18 は、

  本文注: *18 この縛りの粗野ででたらめな形式がダーハム州に実在している。この州は、農業労働者に対する正規の所有権が借地農業主に保証されていない状況にある二・三の州の一つである。鉱山業主も農業労働者にその選択を認める。この州では、借地農業主は、どこでもある慣習とは違って、労働者の小屋を建てる部分のみの農地を借地する。小屋代が彼の賃金の一構成部分となっている。小屋は「後ろ足の家」として知られる。(訳者注:この意味は以下を読んで行けば分かる。) それらの家は労働者へ、ある種の封建的な奉仕の対価として貸し出されている。「縛り」と呼ばれる契約で、いろいろとあってもその核心は労働者を締めつけ、彼が他のいずれかの場所に雇用されている間は、誰かを残すと云うもので、彼の娘や他の者を借地農業主のところに差し出すというものである。労働者自身は「保証者」と呼ばれる。この関係はまたいかに労働者の個人的消費が資本のためのもの−または生産的消費となっているか−全く新たな視点から見て、それをよく示しているものである。(訳者注: とんでもないこととはいえ と読むところ) 「とんでもないことであるが、両後ろ脚の間から落ちる糞尿も、保証者も抜け目なき算段腹領主の超過収入であり:…. そしてこのご領主様は近隣一帯では彼の借地以外には屋外便所の設置を許さず、彼の領主権を少しでも弱めることのないようにと、僅かばかりの肥料をあちこちの園芸に提供する。

  (本文に戻る) それが実現すると同時に、彼自身の定期的な売りとか、資本家なるご主人様の交代とか、労働力の市場価格の変動とかによって、彼の経済的束縛が隠蔽される。*19

  本文注: *19 児童・他の労働に関して云えば、無償の売りであるという形式すらも消失する。このことは銘記されよう。

  (25) かくして、資本主義的生産は、一連の連続した過程、その再生産の過程という面から見て、単に商品を生産するのみならず、単に剰余価値を生産するのみならず、資本主義的関係を生産し、また再生産する。その一方に資本家を置き、その他方に賃金労働者を置くという関係を生産し、また再生産する。*20

  本文注: *20 「資本は賃金労働を前提条件とし、賃金労働は資本を前提条件とする。一方は他方の存在の必要条件である。それらは互いに互いを求めて各存在となる。綿工場の労働者は他でもなく綿製品を生産するのか? そうではない、彼は資本を生産する。彼は彼の労働に対してあらたな命令を下す価値を生産する。そしてそのような命令によって新たな価値を創造する。」(カール マルクス 「賃労働と資本新ライン新聞 第266号 1849年4月7日) この表題で新ライン新聞に掲載した記事は、私が1847年にブラッセルのドイツ「労働者協会」で、このテーマで行ったいくつかの講演の一部である。この出版については二月革命のため中断された。(ドイツ語) (訳者注: ここの「私」は勿論のことマルクス自身である。)




    訳者余談:. いずれ本資本論で言及されるであろうが、もう一つの単純再生産がある。圧勝した与党が、特定秘密保護法を議会で可決した。首相は記者会見で、もっと時間をかけ自らやさしく、分かりやすく説得すべきであったと詫びに近い発言をして、国民の反発と与党の強行採決を和らげておく判断があったことを示した。さて、選挙と云う方法を通じて、資本主義生産体制の政治組織の単純再生産と資本家支援法の再生産を行う仕組みもまた、単純再生産されることを確認させられている。だが、この単純再生産が未来永劫続くものではないことは、読者は当然のこと、多くの人々がそう感じていることでもある。新ライン新聞の記事の若く激しいところはやはり初々しい。余談の筋が違ってしまったかな。





[第二十三章 終り]