1887 Karl Marx
English Edition "Capital" Translated by Samuel Moore and Edward Aveling,Edited by Friedrich Engels
Chapter 8
カール・マルクス
資 本 論
第一巻 資本の生産過程
第三篇 絶対的剰余価値の生産
第八章 不変資本と可変資本
(1) 労働過程の様々な要素は、生産物の価値の形成に関しては、それぞれ違った役割を演じる。
(2) 労働者は、彼の労働対象に、ある量の追加的な労働をその上に費やすことによって、その労働の特別な性格や有用性がどうであろうとも、新たな価値を付け加える。他方、過程で使用された生産手段の価値は、保存される。そして、それら自身を、生産物の価値の構成部分として、新たな形で表す。例えば、綿や紡錘の価値は、撚糸の価値の中に、再現する。従って、生産手段の価値は、生産物に移管されることによって、保存される。この移管は、それらの手段が生産物に変換される間に、生じる。または、別の言葉で云えば、労働過程の間に生じる。つまり、労働によって、もたらされる。だが、いかにしてか?
(3) 労働者は、同時に二つの作業を行うのではない。一つは、綿に価値を与えるために、もう一つは、生産手段の価値を保存するために、または、同じものの価値を撚糸に移管、生産物に移管するために、綿の価値のために作業したり、紡錘の価値の一部のために作業したりするわけではない。そうではなく、新たな価値を追加する行為そのものによって、彼は、それらの以前の価値を保存するのである。だから、どうであれ、彼の労働対象に、新たな価値を追加すること、または、それらの以前の価値を保存すること の二つの全く明確なる結果は、労働者によって、同時に、一つの作業の間に生み出される。この事は、この結果の 二重の自然的性質が、彼の労働の 二重の自然的性質から説明されることができるのは当然の事と云える。その時かつ同時に、一つの性格により、価値を創造しなければならず、もう一つの性格により、価値を保存、または移管しなければならない。
(4) それでは、どのような方法を用いて、労働者は新たな労働とその結果としての新たな価値を付け加えるのか? 明らかに、ただ、特定の方法のうちにある生産的労働によってである。紡績工は紡ぐことで、織り職は織ることで、鍛冶屋は鉄を打つことで。とはいえ、特定の形式の労働、紡績、織り、鍛冶 それぞれが、当然ながら、一般的労働、それが価値なのである、として物に一体化される間の労働によって なのである。生産手段、綿と紡錘、撚糸と織機、鉄と鉄床は、生産物の構成要素となる。労働と生産手段が新たな使用価値として一体化される。それぞれの使用価値は消えて、新たな形のもとに 新たなる使用価値の中にのみ 再現する。我々は、今、価値創造の過程を検討している時、もし、使用価値が新たな使用価値の生産に有効に消費されるならば、消費された品物の生産に支出された労働の量が、新たな使用価値の生産に必要な労働の量の一部を形成する。この一部とは、それゆえに、生産手段から新たな生産物へ移管された労働なのである。ゆえに、労働者は、消費された生産手段の価値を保存する。または、その価値の一部であったそれらを生産物に移管する。内容をそぎ落とした追加的労働によってではなく、特定の有用な労働の性格によって、特別の生産的な形式によってそれをなす。であるから、労働が、そのように特別の生産的行為である限りにおいて、それが紡績、織り、または鍛冶である限りにおいて、ただ触れるだけで、生産手段を死からよみがえらせ、それらを労働過程の生きた要素とする、そして、それらを新たな生産物とするために、共に結合させる。
(5) もしも、作業者の特別な生産的労働が、紡績ではないとするならば、彼は、綿を撚糸に変換することはできない。従って、綿と紡錘の価値を撚糸に移管することもできない。この同じ作業者が、職種を変えて、木工指物師になったと想像してみよう、それでも彼は、彼が作業する材料に、依然として、1日の労働によって、価値を追加することができるであろう。この事から明らかなように、第一には、新たな価値の追加は、彼の労働が特に紡績であるからではなく、特に木工指物であるからでもなく、ただの 内容を問わない労働、社会の全労働の一部であるがゆえである。そして、次には、追加された価値は、ある与えられた量であり、彼の労働が持つ特別なる有用性のゆえではなく、ある量の時間 その労働が用いられたからである。一方は、だから、内容をそぎ落とした人間労働の支出というその一般的性格のゆえであり、紡績が綿と紡錘の価値に新たな価値を追加する。他方は、だから、その同じ紡績労働が、生産手段の価値を生産物に移管し、それらを生産物に保存するという 特別な性格を持つ、具体的な、有用な過程であるがゆえである。であるから、その時かつ同時に、二重の結果が生産される。
(6) ある量の労働の、単純な追加によって、新たな価値が付加される。この加えられた労働の質によって、労働手段の元の価値が、生産物に保存される。労働の二重の性格から生じる この二重の効用は、いろいろな現象のなかに、その痕跡を見ることができるであろう。
(7) ある発明が、紡績工に、彼が以前36時間を要して紡ぐことができたのと同じ量を、6時間で紡ぐことができるようになったと仮定してみよう。有用な生産の目的のために、彼の労働は、今では、以前よりも、6倍も効果的なものとなった。6時間の作業の生産物が、6倍に増大した。6ポンドから36ポンドに。しかし、今の36ポンドの綿は、ただ、以前の6ポンドの場合と同じ労働の量を吸収している。1/6の新たな労働が、綿各1ポンドによって、吸収された。であるから、労働によって各1ポンドに追加された価値は、ただ、以前のものの、1/6となるわけである。他方、生産物としては、36ポンドの撚糸としては、綿から移管された価値は以前の6倍も大きい。6時間の紡績によって、原料の価値は、生産物に保存され、移管されたが、それは以前よりも6倍も大きい。とはいえ、紡績工の労働によって追加された新たな価値は、その同じ原料の各1ポンドでは、以前のものの1/6である。このことは、価値を保存することができる一つの場合の特性と、価値を創造することができる他の場合の特性の、二つの労働の特性が、本質的に違ったものであることを示している。一方では、一定量の綿を撚糸に紡ぐに要する時間が長ければ長い程、より大きな新たな価値が材料に加えられる。他方、一定時間内に紡がれる綿の重量が大きければ大きい程、より大きな価値が保存され、それが生産物に移管される。
(8) 今度は、紡績工の労働の生産性が 変化するのとは代わって、一定に留まり、従って、彼は、1ポンドの綿を撚糸に変換するためには、彼が以前やっていたのと同じ時間を要するものとして、だが、綿の交換価値が変化し、以前の価値の6倍に上昇したり、その価値が、1/6に低下したりすると、仮定してみることにしよう。これらのいずれの場合においても、紡績工は、1ポンドの綿に同じ量の労働を据える。そして、だから、彼は、以前、彼が価値を変えたように、その同じ価値を追加する。彼は、また、彼が以前やっていたように、同じ時間に、ある与えられた重量の撚糸を生産する。だがそれにもかかわらず、綿から撚糸に移管する価値は、変化以前の1/6であったり、場合によっては、以前の6倍にもなったりする。同じような結果が、労働手段の価値が上昇したり、または、低下したりする場合にも生じる。だが、この場合は、その間、過程において、それらの有用な効力は変えられることなくそのままに留まるものとすればということである。
(9) 再度確認しておこう。もし、紡績過程の技術的条件が、不変で、一定に保たれ、生産手段にも価値の変動がないとするならば、紡績工は、同じ作業時間で、同量の原料と、価値変動のない機械類の同じ量を消費し続ける。彼が生産物に保存する価値は、彼が生産物に付け加える新たな価値に、直接的に比例している。2週間にわたって、彼が、1週間に較べて2倍の労働を、つまり2倍の価値を一体化すれば、そしてその同じ時間に、2倍の原料と2倍の機械類損耗分を、つまりそれぞれ2倍の価値を消費すれば、その結果として、彼は、2週間の生産物に、1週間の生産物に較べて2倍の価値を保存する。生産の諸条件が一定である限りにおいて、労働者が、生きている労働によって付け加える価値が大きければ大きい程、彼はより大きい価値を移管し保存する。とはいえ、彼がそうするのは、単純に、この新たな価値の追加が生じる条件が 変化せず、かつ、彼自身の労働から独立しているからなのである。勿論、このことは、次の様に云えるであろう。労働者は、彼が追加した新たな価値の量に常に比例して、古い価値を保存する、と。綿の価値が1シリングから2シリングに上昇、または6ペンスに下落したとしても、いずれの場合でも、作業者は、1時間の生産物の中に、2時間で保存する価値に較べて、ただ1/2の価値を変わることなく保存する。同様に、もし彼自身の労働の生産性が上昇または低下と変化するとしたら、彼は、1時間に、場合に応じて、彼が以前やっていたのに較べて、より多くの または より少ない、いずれかの綿量を紡ぐであろうし、その結果として、彼は、1時間の生産物の中に、より多くの または、より少ない綿の価値を保存するであろう。しかしながら、彼は、2時間の労働によって、1時間のそれと較べて、2倍の価値を保存するであろうことは、いずれの場合でも同じである。
(10) 価値は、ただ、有用な品物の中に、物の中に存在する。その、純粋に、記念品のような象徴的な表現という思考から抜け出してみよう。( 人間 彼自身は、労働力の擬人化として見なせば、自然なる物、物 と言える。とはいえ、生きていて 意識のある物である。そして、労働が、彼の内に存在するこの力の明示に他ならない。) 従って、もし、品物がその有用性を失えば、それはまた、その価値を失う。生産手段が、それらが、それらの使用価値を失う時、その時と同時に、なぜそれらの価値を失わないのかの理由は、このようになる。それらは、労働過程において、当初の形式であるそれらの使用価値は失うが、ただ、生産物の中に、新たな使用価値を形成すると 考えるからである。しかしながら、とはいえ、価値として重要と思われる点は、それ自体を内に体現する有用なある品物でなければならないが、この目的を果たす特定な物が何であるかは、全くのところ、どうでもいいのである。このことは、商品の変態を取り扱う時に見たところである。従って、次の様に云える。労働過程において、生産手段は、それらの価値を、ただ、それらの使用価値とともに、それらの交換価値をも失う限りにおいてのみ、生産物に移管する。それらは、自身の生産手段として失った価値のみを生産物に差し出す。しかし、この点に関しては、労働過程の材料的要素は、全てが同じように振る舞うわけではない。
(11) 石炭は、ボイラー釜の下で燃えて、痕跡も残さずに消え失せる。車軸に塗られたグリースも、同様に消え失せる。染料やその他の補助物質も同様に消失するが、生産物の性質として再現する。原料は、生産物の実質を形成するが、ただし、その形を変えた後でのことである。従って、であるから、原料や補助物質は、以前それらが纏っていた性格的形式を、労働過程に入る時に失う。労働手段はこれとは異なる。道具、機械、作業場、そして容器は、それらが、それらの元の形を保持している限りにおいて、労働過程で使えるのである。そして、それらの変わらぬ形が、毎朝、過程の再開を準備してくれる。このことは、それらの寿命のある期間、言うなれば、それらが、役割を果たす 継続する労働過程期間内では、生産物からは独立した形を保持する。またそのように、それらは死んだ後も形を保持する。機械、道具、作業場等々の死骸は、それらが創出を助けた生産物とは常に分離されかつ区別されている。今、もし、我々が、いずれもの労働手段の 使用された全期間を 取り上げて見るならば、それが仕事場へ入って来た日から、物置小屋に追放される日までを、考えるならば、その間に、それらの使用価値が完全に消費され、それゆえに、それらの交換価値が完全に生産物に移管されたことを、我々は見出すであろう。例えば、もし、紡績機械が10年間 使用に耐えうるとするならば、その活用期間に、その全価値が徐々に、10年間の生産物に移管されたことは当然のことである。従って、労働手段の一生は、長短の差はあれ、同じ作業の繰り返しの内に終わる。それらの一生は、人間のそれと同じと云えるかもしれない。日々が、人を、24時間だけ、墓場の近くへと連れていく。とはいえ、その道を何日間旅し続けるのかは、単に彼の外見を見たからといって、正確に告げることは誰にもできない。にもかかわらず、この難しさが、生命保険会社の営業を妨害するというものでもない。平均寿命理論を用いて、非常に正確に、同時に、非常に儲かる結論を得る上での妨げになるというものでもない。
訳者余談の隙間がなかなか見出せないのであるが、無理にここで突っ込んでみた。生命保険会社が、平均寿命の数値をどのようにして得ているかであるが、彼等首脳陣が苦慮する点はなにもない。国の担当部署が、税金を用いて、毎年、定期的に、生命表 と云う数値表を公開している。今何才の人が、何才で死ぬか、男女別に数値で示してくれる。あとは簡単なプログラムで、いかようにも儲けることは計算できる。ただ、加入する人を如何に説得できるか だけの問題が、生命保険会社の首脳陣の無駄な智恵の出し所ということである。早い話、あんたは、早く死ぬと悟らせるだけのことだが、そのために、生命表 これは死亡表でもあるが、を見せることだけは敢えてやらない。毎年の生命表( 死亡表 )を較べれば、将来の予測も見えるというものだが、生命保険会社は談合によって、数十年も前の表を標準生命表と決めて、営業する。外資は、とある国の旧生命表を我が社の生命表と内部では云うのである。国の機関が、現生命表との差に、つまり民間の営業に文句をいうかどうかは、政治の問題であって、生命保険会社首脳の政治の話である。政権と消費者庁が何と云うかは、あるいは云わせるかは、首脳陣の活躍如何に掛かっている。60年も続いた政権が、選挙で退場を決められた。だから、新政権も生命表で試されることになるのである。物の償却年数もまた、政治が決めているのであるが、税金の計算をしたことがあれば、償却表の珍妙さも知ったであろう。そのことへと続く本文に戻る。
そう、労働手段についてもそのようなことなのである。特定の種類の機械がどの程度の耐用性を有するかは、平均的に、経験から知られているところである。そのものの、労働過程での使用価値が、ただの6日間しか持続しないとしよう。そうすれば、平均的に、その使用価値の1/6が日々失われる。従って、その価値の1/6が、1日の生産物へと切り離される。労働手段の損耗、それらの1日当りの使用価値の消失、生産物へと切り離される価値の相当量は、この原理に基づき、それ相応に計算されている。
(12) かくてこの様に、以下のことは、目を打つほど明白である。すなわち、生産手段は、労働過程において、自身の使用価値の損耗により、それらが、それら自身を消失するが、その価値以上のものを、生産物に決して移管しない。もし、その生産手段に失う価値がないならば、別の言葉で云えば、それが人間労働の生産物でないならば、生産物に移管する価値はない。それは、交換価値の形成にはなんら寄与しないが、使用価値を創り出すことは助ける。このようなものは、人間の助力なしに自然によって供給されるすべての生産手段の中に含まれている。それらは、大地、風、水、その辺にころがっている金属鉱石、処女林の木材等である。
(13) 他に、まだ、生産手段自体が示す興味深い点がある。1,000英ポンドの価値がある機械があって、1,000日で全てが損耗すると仮定してみよう。であれば、日当りの生産物に、1日ごとに、1/1,000 相当の機械の価値を移管する。同時に、活力を減退させつつあるとはいえ、その機械は、全体として労働過程で、その役割を継続する。そのように、労働過程の一要素、生産手段は、全体として労働過程に入り続けるが、一方、その価値形成過程には、その分数部分のみしか入らない。二つの過程での違いは、それらの物質的要素の内に、以下のことを、このような違いとして反映しているのである。同じ生産手段が、労働過程では全体として役割を果たし、一方同時に、価値の形成の要素としては、ただ分数部分のみを入れるだけと云うことを。
訳者余談である。この該当部分の向坂訳について、取り上げて置く。向坂訳は、
「かくして、労働過程のある因子は、ある生産手段は、労働過程には全体として入るが、価値増殖過程には一部分しか入らない、ということが分かる。ここでは、同一生産過程において、同一生産手段が、労働過程の要素としては全体として数えられ、価値形成の要素としては部分的にのみ数えられることによって、労働過程と価値増殖過程との区別が、それらの対象的因子に反射するのである。」となっている。
ある生産手段は、労働過程には全体として、価値増殖過程には一部分として入る、と云うところである。これでは、生産手段の一部分は、価値増殖過程に入ると読み取らせる。剰余価値を、生産手段が、生み出すとなりかねない。これでは俗流経済学者と変わらない見解を資本論が述べていることになってしまうではないか。向坂訳の何が問題なのであろうか。一つは全体と一部分という極めて当たり前の言葉を、その同質性を、内容の違いを無視して二つのことにそれぞれ用いたことにある。もう一つは、価値増殖過程という言葉を用いたことにある。私は、全体に対して、分数部分とし、また増殖を避けて、価値形成過程と訳すことで、これを回避した。翻訳の難しさではなく、本質を突き通して見ることの大事さ、慎重さ、誤解を産みかねない点への注意力の話である。私の読者は、この混乱に巡り合わないが、向坂訳では、資本が価値を増殖するという一文を含む珍妙 資本論という困った事態に遭遇することになる。本文注で、読者はより明確に把握することができるので、この辺で切り上げよう。云って置くが、ここの向坂訳の本文注は、かなり偉大な把握困難性を伴っている。読み比べるならば、その重要な価値移管にかかる論点を、より正確に把握することができるはずである。( 向坂訳は、残念ながらここに載せてはいない。)
本文注: 労働手段の修理という点については、我々は、本題としては、取り上げない。修理した機械は、もはや手段の役割を果たすものではなく、労働の対象でしかない。もはやそれで作業をするというものではなく、敢えてその面倒を見るというものである。我々の論述目的のために、次のように想定することは、だれにも認めて貰えるものと思う。労働手段の修理に支出された労働は、それらの本来の生産に必要な労働に含まれている、と。我々が本題とするものは、医者が治癒できない損耗であって、僅かずつ死に運ばれるもので、「時に応じて修理されることができない損耗をいうのであって、ちょうどナイフで云うなら、殆ど減磨して、刃物師がこの状態を見て、新たな刃を研ぐことは意味がないと云うであろうことである。」 我々は本文で、機械は、あらゆる労働過程において、機械としての必須の全体で役割を果たし、しかし、同時に、価値創造過程( 訳者注: 価値増殖過程ではない。向坂訳はこの増殖を当てている。) には、僅かづつしか入らないことを見て来た。だから、次のような引用に示された考えの混乱は、かなり偉大なものなのである。「リカード氏が、[靴下]を作る機械の製造工の労働の一部は、と言うのは、」一足の靴下の価値に、例えば、含まれているということのようだ。「依然として、全体としての労働、それぞれの靴下各足を生産する労働 ...は、それらの製造工の全労働を含んでおり、部分ではなく、一つの機械として、沢山の靴下を作り、機械のうちのいかなる部分かを欠いては、靴下を作る事はできない。」("Obs. on Certain Verbal Disputes in Pol. Econ., Particularly Relating to Value," p. 54) 著者は、通常ならぬ自己満足的半可通もいいところだが、彼の混乱と、従って、彼の論争に関する限りでは、正しい。リカードも、いかなる他の経済学者達も、彼の以前も以後も、この二つの労働の局面を正確に区別しなかったし、従って、それらの価値形成という各局面のもとでの、その役割を依然として見ていないのだから。
(14) 他方、ある生産手段は、全体として、価値形成の役割を果たす、労働過程には、この間、それは少しずつのみ入る。綿の紡績において、115ポンドごとに、通常15ポンドの屑綿が、撚糸に変換されずに、「悪魔の塵」になってしまう。さて、この15ポンドの綿は、撚糸の構成要素には決してならないとはいえ、それでも、平均的な紡績の条件では、この屑綿量は、当然のもので、避けられないと考えられ、その価値は、そのまま確実に、撚糸の価値に移管される。撚糸の物質を形成する100ポンドの綿の価値と同じように。100ポンドの撚糸が作られる前に、15ポンドの綿の使用価値は塵に消えねばならない。この綿の崩壊は、従って、撚糸の生産には必要な条件なのである。だから、それが必要な条件であり、他にはない理由により、その綿の価値が生産物に移管されるのである。労働過程から生じるあらゆる種類の廃棄物は、この様に確かなものを持っている。ただ、その廃棄物が、新たなそして独立の使用価値をもって再び用いられることができないという限りでのことである。廃棄物の再利用というのも、マンチスターで活動する大きな機械ではよく見られる。そこでは、山のような鉄の削りくずが、夕方、鋳造所へと運び出される。翌朝、鉄の大きな固まりとして、仕事場に再び現われるために、積み出される。
(15) 我々は、生産手段が、それらの古い使用価値の形の中に持っていた価値を労働過程期間内で消失する限りにおいて、価値を新たな生産物に移管するのを見てきた。それらが過程において、耐えることができた価値の最大損失量は、云うまでもなく、過程に入ってきた時の元の価値量に制約される。または別の言葉で云えば、それらの生産に必要な労働時間に制約される。従って、生産手段は、それらが備わる過程とは独立してそれら自体が持っている価値以上の価値を、生産物に移管することは決してできない。与えられた原料、または機械、または他の生産手段がいかに有用だとしても、それが、150英ポンドの価格で、また別の言葉で云えば、500日間の労働であるとしても、いかなる状況のもとであれ、依然として、150英ポンド以上の価値を生産物に加えることはできない。それらの価値は、それが生産手段として入った労働過程によって決められるのではなく、そこから生産物として出ることで決められる。それは、労働過程において、単に使用価値として役割を果たし、有用な性質を持つ物である、従って、それが以前に価値を持っていなかったならば、生産物には、いかなる価値をも移管しない。
本文注: このことから、我々は、J.B.セイの馬鹿らしい説を審判することができるだろう。彼は、余剰価値 ( 利子、利潤、地代 )が、
"生産的部分" ( フランス語 ) 生産手段、土地、道具、原料などの、それらの使用価値なるものを、労働過程に投入することで生じるという解説を企てる。
Wm.ロッシェル氏は、紙に黒インクで、なんかを書いて置こうと、いつでもその機会を逃さないのであるが、独創的な思いつきの評論の一つとして、記したものに、次のようなものがある。"J.B.セイの示すところは、まさに正しい。搾油機によって作られる価値は、あらゆる費用を差し引いた後の、なにか新たなもので、搾油機自体が組み立てられた労働とは全く違ったあるものである"
教授!、まさに真実、搾油機によって生産された油は、その通り、搾油機の構築に支出された労働! とは、確かに違う あるものである。ロッシェル氏は、価値を、そのようなもの、"油"のようなものと理解している。なぜなら、油は価値を持っているからと。それはそうだが、それにもかかわらず、"自然" は石油を産み出す、確かに相対的には"僅かな量"ではあるが。この事実に対する彼のさらなる観察から述べようとしているところは、次のようになる。"それ (自然) は、交換価値を産まない。"
ロッシェル氏の"自然"と交換価値の見解は、愚かな処女が、彼女がその通りと子供を産んだことを認めながら、しかし、"それはただ小さなものであった" と云うのに似ている。
この" 賢き熱心なる者" ( フランス語 )は、さらに続けて次のように云う。"リカード学派は、資本を、蓄積された労働として、労働の概念のもとに含めるのが習慣である。この論は巧みなものではない。なぜならば、まさに、資本の所持者は、結局のところ、その同じものを、保存したり、創造したりする以上のなにものかを成した。すなわち、利子を要求するために、それをただの楽しみから節欲したのである。"
この政治経済学の、解剖学的・生理学的方法のなんと"巧みな"ことよ。"まさに"、単なる欲求を、"結局のところ"、価値の源泉に変換したのである。
(16) 生産的労働が、生産手段を、新たな生産物へと変えている間に、それらの価値は、霊魂輪廻を経る。その消費され尽くした体に、新たに創造された体を占有する褒美が与えられる。しかし、この生まれ変わりは、そう云えるものであるが、労働者の背後に隠れて起こる。彼は、同時に、以前の価値を保存することなくして、新たな労働を加えることはできないし、新たな価値を創造することもできない。このことは、彼が加える労働が特別に有用なものでなければならず、生産物を、新たな生産物のための生産手段とすることなくしては、有用な種類の作業をすることができないからである。であるからして、それらの価値を新たな生産物に移管する。従って、労働力の作動、生きた労働の、価値を保存する能力、同時にそれを付け加える その特質は、自然の贈り物であって、労働者にはなんの損失もない。しかし、資本家の資本の現在価値を保存する限りにおいては、彼にとって大きな利点である。商売が好調である限りにおいては、資本家は金儲けにのめり込み過ぎていて、この労働の無償の贈り物に一瞥もしない。恐慌による破壊的な労働過程の中断は、彼をして、このことに、敏感に気づかせる。
本文注: 1862年11月26日付けタイムズに、800人を雇い、150梱の東インド綿、または130梱のアメリカ綿を紡ぐ(訳者注: ここでは、週とか月とかの単位記述はしていない。)、ある製造業者が、仕事をしない彼の工場の、それでも生じる出費について、悲痛に満ちた様子で、窮状を述べている。年 6,000英ポンドに達すると、彼は見積もる。それらの項目の中には、地代、地方税、国税、保険、支配人・帳簿係・運転技師・他の給与といった、ここでは我々にとってなんら関係ないものも多い。その後に、工場を時々暖めたり、時々蒸気機関を動かすための石炭代として150英ポンドと計算する。これに、時々機械を作業状態に維持するために雇う人の賃金も含めている。最後に、機械の減価償却として、1,200英ポンドを計上する。なぜなら、蒸気機関が回転を止めたからといって、天候や自然の腐朽原理はその作用を停止しないからである。彼は、次のことをも強調する。彼の機械が、すでに、相当痛んでいるため、1,200英ポンドという小さな額以上には見積もっていないと。
(17) 生産手段に関して云うならば、実際に消費されたものが、それらの使用価値であり、そして労働によるこの使用価値の消費が、生産物に帰結する。そこに、それらの価値の消費はない。
本文注: 生産的消費…においては、商品の消費は、生産過程の一部となっている。…この様な場合には、価値の消費は生じない。(S. P. ニューマン「経済学概要」 p. 296. )
従って、であるから、再生産されると云うならそれは正確ではない。むしろ保存される である。それは、過程においてそれ自身が成すいかなる作業によるものではなく、その品物の中にもともと存在するものが、消失するからである、それが真実ではあるが、ただあるその他の品物へと消失する。故に、生産物の中に、生産手段の価値の再現がある。ただ、厳密に云うならば、それらの価値の再生産ではない。つまりは、生産されたものは、新たな使用価値であり、その中に、以前の交換価値が再現するのである。
本文注: 多分20版と多刷した アメリカの経済概要書の一節は、こう書き出される。「資本がどの様な形式で再現しようと、そんなことは、どうでもいい。」それから、饒舌極まる 生産物に再現される生産要素の可能性なるものを列挙したのちに、次のように結論づける。「様々な種類の食料、衣料 そして住まい、人間としての生存及び慰みに必要なもの、もまた、変化を受けてきた。それらのものは、時から時へと消費され、彼の体と心に新たな活力を添えることで、新たな資本を形成することで、生産の仕事に再び雇用されることで、それらの価値が再現する。(F. ウェイランド「経済学概要」pp. 31, 32.) 他の奇妙な点に言及しないとすれば、次のように述べれば充分であろう。新たな活力として再現する実体は、パンの価格ではなく、血液を形成するその物質である。また他方、活力の価値として表れる実体は、生存手段ではなく、ただそれらの価値である。同一の生活必需品は、価格が半分であっても、活力と同一の筋肉と骨を形成する。しかし、生活必需品の価格が異なれば、同一の価値なる活力を形成しない。この「価値」と「活力」の混乱は、我等が著者の脳が パリサイ人的曖昧さと結合しており、以前から存在している価値の単なる再現から 剰余価値を説明しようとしても、なんら 成果を得ることはない。
訳者余談で、「パリサイ人的曖昧さと結合している脳」を解明することはできないが、ここまで読んで来た読者には、資本主義的経済学者が、労働を見ず、資本が資本を増大させると主張する理由も分かっているので、この本文注の補完も理解を担保してくれるであろう。キリスト教やユダヤ教を知らなくても、これらの意味・内容は把握できるだろう。訳者余談は、核を持ち込ませずという政策を掲げて、事前協議の要請がないのだから、実際に核は持ち込まれも、通過もしていないという論理を展開した旧自公政権のパリサイ人的曖昧さと結合した脳を笑うものである。イエスもいかにこれらの者を赦そうかと頭を痛めることであろう。新民主政権の外務大臣は、米国務次官補(東アジア・太平洋担当)と会談、密約の解明に取り組むことを告げ、公開されているのだから、なんら迷惑にはならないであろうと了解を求めた。次官補も当然のことと受け留めた。日米の核に関する密約は、すでに米国では公開されており、密約の文面も入手できる。旧政権もこれを虚偽であるとは云わずに、それでも、密約は無かったと繰り返してきた。これまでの経過を知れば、パリサイ人も、較べられる話じゃないと文句を云うだろう。自らの利益のために、都合のいい論理を作り出す脳は、当然ながら真実を隠す。その論理に固執するしか手がなくなる。常に曖昧さを維持することにもなる。国の安全のためというが、国民を騙してまでやらなければならない平和も安全もあるはずがない。パリサイ人も既得権益をイエスとやらの精神的追及から守るために、ユダヤ律法の厳格さを形式的に持ち出すしか手が無かったのである。資本家には、資本の自然増殖性を持ち出して、労働者からの追及を逃れ、彼の権益を守る この手しかないのである。密約の経緯が明らかになれば、密約が無かったということで得られた権益も消え失せる。イエスは再びパリサイ人の優秀なる脳に言及することもないだろう。新政権は、旧政権の優秀なる脳に言及する必要も無くなるだろう。労働者は、資本家の優秀なる脳になんの関心も持たないこととなろう。アメリカも、今、持ち込まない、通過させない核について、都合で、寄り掛かっていたパリサイ人の脳だが、改めて借り直すには、多少の逡巡を感じていることだろう。核廃絶と核位置の明示が共に不要となる日が来るか。資本の国際的争いである資本主義的戦争が、歴史的必要悪から不要へと変換できるかである。
(18) 生産手段については、前段で、本文注も含めて述べて来た通りであるが、これとは全く違うのが、労働過程の主要な要素、活動している労働力である。労働者が、特別なる対象を持つ 彼の特別な種類の労働によって、生産手段の価値を生産物に保存または移管する間に、彼は同時に、単なる作業活動によって、その瞬間々々に、追加的なまたは新たな価値を創造する。ところで、作業者が、彼自身の価値、彼自身の労働力の価値と同価値を生産した時点で、生産過程が止められたと仮定してみよう。例えば、6時間の労働で、彼は、3シリングの価値を加えたのである。この価値は、生産物の全価値から、生産手段に起因する価値部分を、差し引いた余剰である。これこそ、過程において形成された唯一の価値の発現断片であり、この過程で創造された唯一の生産物の価値部分である。勿論我々は、この新たな価値が、資本家によって、労働力の買いに前貸しされた貨幣の、その貨幣は、労働者によって、生活必需品に支出されたのであるが、その、単なる置換であるということを忘れてはいない。労働者によって支出された貨幣について見れば、新たなる価値は、単なる再生産に過ぎないが、しかし、それにもかかわらず、実際に、生産手段の価値の場合とは違って、まさに明らかな、再生産なのである。一つのある価値の、他の価値への置換が、ここでは、新たなる価値の創造によって結実する。
(19) それ以上に、我々はここまで読んできたことから、労働過程が、労働力の価値と単純に等価となるものを生産物に再生産し、一体化するに必要な時間を越えて、継続するであろうことを知っている。等価のためには充分な6時間に代わって、過程は、12時間も継続するであろう。労働力の活動は、従って、それ自身の価値を再生産するだけではなく、それを越えて、それ以上の価値を生産する。この剰余価値は、生産物の価値と、その生産物の形成のために消費された要素群の価値との差である。別の言葉で云えば、生産物の価値と、生産手段と労働力の価値との差である。
(20 ) 生産物の価値の形成において、労働過程の様々な要素によって演じられる 役割の違いについての 我々の説明によって、事実、我々は、資本自身の価値拡大過程における、資本の異なる要素に付与された 異なる機能の性格を明らかにしてきた。生産物の全価値の剰余分、その構成要素の価値総計を越える分は、当初前貸しされた資本を越えて拡大された 資本の剰余分である。一方に生産手段があり、他方に労働力があるが、これらは、労働過程の様々な要素に変換された、当初資本となった貨幣であり、その価値の存在様式の単なる違いに過ぎない。資本のある部分、生産手段、原料、補助材料、そして労働手段は、生産過程において、いかなる価値量の変化も起こさないのであるから、従って、私は、これを、資本の不変部分、または、より短く、不変資本と呼ぶ。(constant capital)
(21 ) 資本のもう一つの部分、労働力であるが、これは、生産過程において、価値の変化を生ずる。それは、自身の価値の等価を再生産し、かつまたその超過分を生産する。剰余価値を生産する。剰余価値自体も変化するであろう。状況によって多くなったり、少なくなったりするであろう。資本のこの部分は、常に、不変のものから、量的変化するものに変換され続ける。従って、私は、これを、資本の可変部分、または、短く、可変資本と呼ぶ。(variable capital) 資本の同じ各要素は、労働過程視点で見れば、それら自体は、それぞれ生産手段と労働力、対象的と主体的な各要素を表す。剰余価値を創造する過程視点で見れば、それら自体は、不変資本と可変資本を表す。
(22 ) 不変資本の定義は、前述の通りであるが、その要素において、価値の変化の可能性を排除するものではない。
無理やり訳者余談で申し訳ないが、この価値の変化(a change of value) を、ドイツ語原本から価値革命と向坂本は訳す。勿論以下の文章で、その大げさな言葉の意味が単なる市場価格の変化であることは分かるので、何も問題ではないのだが、これだけを見ると、不変資本の価値革命を排除しないという、資本主義経済学者の論そのものに見える。オバマ大統領も、鳩山首相も、チェンジを連呼したが、政治革命とは言わない程度のものである。これを革命と云うなら、笑われるだけだろう。だが、ことは資本論の中である。トンカツ屋の古店主御仁が、コロッケ1ヶ200万両と言ったとしても、価値革命と思う人はいないが、資本家が資本論を読めば、労働力を買おうが買うまいが、原料や機械を買うだけで、価値革命ができると、資本論には書いてある。凄い本だ。バカな本だ。と云い兼ねない。笑えないのだ。もう一言いえば、価格上昇を狙った投機的価値革命の解説書でもないのである。もう一言付け加えた理由は、本文中に付けた次の訳者挿入を見れば分かるだろう。本文に戻る。
仮に、ある日 綿の価格が、1重量ポンドあたり6ペンスであるとしよう。翌日 綿の収穫の不足から1ポンドあたり1シリングになったとしよう。いずれの綿も6ペンスで買われ、そして価値が上昇した後で、仕事を終えた。生産物には、1シリングの価値が移管している。綿価格上昇以前に紡ぎ終えたものもまた、撚糸として市場流通するならば、同様、以前の価値の2倍を生産物に移管する。しかしながら、これらの価値の変化は、紡ぎ自体によって綿に加えられた 増加分または剰余価値から独立しているのは云うまでもないことである。もし、古い綿が、紡がれていなかったなら、価格上昇の後では、1ポンド6ペンスに替わって1シリングで、売ることができるであろう。さらに加えて云えば、綿が過程を経過している度合いが少なければ少ない程、この結果は、より確実なのである。我々は、それゆえに、投機家が、このような急な価値変化( 訳者挿入 such sudden changes in value occur, ここも向坂本は、これを、価値革命と訳している。 ) に際しては、最も少ない労働の量しか支出されていない材料に投資するということを法則化しているのを発見する。従って、布よりは撚糸に、撚糸よりは綿それ自体に投機する。我々が今見ているこの場合の価値の変化は、綿が生産手段の役割を演じている過程に起因するものでも、従って、不変資本としての機能に起因しているものでもなく、ただ、綿自身が生産される過程に起因しているのである。商品の価値は、これが真実である、それに含まれる労働の量によって決まる。ただし、この量自体は、社会的条件によって制約される。もし、いかなる商品であれ、その生産に必要となる社会的労働時間が変化したなら、--- 凶作の収穫の結果は、豊穣の収穫の結果よりも多くの労働が、与えられた綿の重量を表す。--- 以前から存在している全ての同じような商品群は、影響を受ける。なぜならば、それらは、かってそうであったように、今も、ただ、その種類の個々であるからであり、そして、それらの価値は、社会的に必要な ある与えられた時間で計量されるからである。すなわち、現に存在している社会的条件のもとでの 必要な労働によって、計量されるからである。
(23 ) 原料の価値が変化するように、過程において用いられる労働手段、機械類等のそれも、同じく変化するであろう。その結果として、それらから生産物に移管される価値の該当部分は、同様、変化するであろう。もしも、新たな発明の結果、特定の種類の機器が、労働の小さな支出によって生産されることができたとしたら、古い機械は多少の差はあれ、その価値を低下させられる。その結果、それなりに少ない価値を生産物に移管する。しかしながら、ここで繰り返すが、この価値の変化は、機械が生産手段として活動する過程外のものに起因している。一旦この過程に入るならば、その機械は、過程外で持っていた価値以上のものを移管することはできない。
(24 ) 生産手段の価値の変化があったとても、それらが労働過程において、その役割を開始した後でさえも、不変資本というそれらの性格を変えるものではない。そのように、また、可変資本に対する不変資本の比率が変化したとしても、資本のこの二つの種類のそれぞれの機能には影響を与えない。労働過程の技術的条件が次のように大きく革新されたならば、以前は10人が10個の小さな価値の道具を使用して、比較的少量の原料で仕事をなしていたが、今では、1人で、高価な機械一つで、100倍の原料を取り扱うようになったならば、この後者の場合、我々は、巨大な不変資本の増大に直面する。このことは、使用される生産手段の全価値の大増大と、同時に、労働力に投資される可変資本の、大削減として表される。とはいえ、このような革新は、ただ、不変資本と可変資本の量的関係を変えたのみで、あるいは、全資本が、不変的要素と可変的要素に分割される比率を変えたのみで、この二つの根本的な違いには、いかなる変化も生じてはいない。